君は瀬川冬樹を知ってるかい(あるオーディオ評論家の死)

 今でもあの日のことはハッキリと思い出す。・・昭和56年(1981年)11月の読売新聞の死亡蘭に「瀬川冬樹」の名前が載った。私は目を疑ってもう一度見直した・・が、やはり瀬川冬樹となっている。46歳の若さであった。・・あの瀬川さんが・・。

このニュース(?)に喜ぶ人も含め同じ思いのオーディオ関係者(広い意味で)も多かったに違いない。

私が「瀬川冬樹」の名前を始めて知ったのは昭和34〜5年の「ラジオ技術」誌上のプリアンプ製作蘭(?)です。・・オーディオアンプのあるべき姿、それを形に現すためには・・等、静かな語り口ではあるが主張はキッチリと、そして解りやすい記事に中学生であった私はコロリと参ってしまった時からである。

間もなくの昭和39〜40年頃に「オーディオ評論家」(?)に転換されてしまって残念な思いをしたけれど、その後のオーディオ評論は多数の評論家の中でも傑出的存在で、機器の性能の良し悪しに留まらず精神的な問題も真剣にマジメにメーカーの如何にかかわらず問い掛けていた姿勢は亡くなるまで変わらなかった。

昭和44年頃だと思うけれど、山水が主権したレコードプレイヤーの発表会が東京新橋に近い虎ノ門の日生ホール(と思う)で行われた時、瀬川さんが出られる・・と、聞き、私は顔見たさに出かけていった。 製品のことは覚えていないけれど、会場の左右に設置されたアルティック・ランシング(A7?)のスピーカー、広い場内満員で熱気ムンムンの雰囲気と共に、アシスタントに気を使って丁重に語る若き「瀬川冬樹」の姿が目に焼き付いて離れない。(瀬川さんはカートリッジの聴き比べの担当でした)

私にとって・・「この評論家はこう言っているが瀬川さんはどうかな?」・・と、いつも基準的存在で有り続けた。


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